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『青島官報』は、ドイツ帝国膠州総督府(Kaiserliches Gouvernement Kiautschou)によって発行されていた官報である。基本的に、週に一回、年間に53、もしくは54号が発刊されていた。またすべてドイツ語で書かれており、部分的に中国語の翻訳が併記されている。内容の中心は、まさに「官報」であり、総督府などからの命令や法令である。しかし1901年とそれ以外の年とでは、その紙面において大きく異なっている。1901年の『青島官報』においては、「電報」という形式で国内外の情報を掲載しており、数ページの「広告」面もある。いわゆる「官報」というよりも、青島に居住するドイツ人にとっての「新聞」に近いスタイルがとられている。ところが1901年9月以降の『青島官報』では、そういった「電報」や「広告」はなくなり、ほぼ「官報」としての部分だけとなっている。
なお今回作業をした6年分の『青島官報』のオリジナルは、金沢大学(旧制第四高等学校)中央図書館所蔵「青島文庫」に収められている。
2006年度神戸大学海港都市研究センターでは、このドイツ語で書かれた『青島官報』(1901、4、5、7-9年)の記事を整理し、日本語による見出をつける作業を行った。これは、より多くの研究者にとって『青島官報』を利用しやすいものとすることが目的である。日本語見出をつける作業にあたったのは、西洋史を専攻している大学院生8名(石井、市原、竹内、中西、西田、西辻、三宅、宮崎)である。各記事ごとに、それぞれ日本語の見出しを付し、必要に応じて記事の内容を要約したもの、交付日、交付者を記入した。また海港都市研究センターのHPに、『青島官報』をアップするための作業は、東洋史の2名(小関と倉)にお願いをした。さらに『青島官報』に関する解説を東洋史の高さんに執筆してもらい、冒頭に添えた。これらの作業は2007年3月末までに完了した。
『青島官報』は、1900年7月7日にドイツ総督府(青島の殖民統治機関)により創刊され、ドイツ占領時代を通して発行を続けていた。青島新聞史で始めての官報となった。
1897年、ドイツは、青島を占領するが、その際に植民地統治政策の作成及び施政をいかなる形で進めていくかという問題に直面した。結果、中国人に対してドイツ風の教育を行い、それによって青島現地における統治を円滑に進めようとした。『青島官報』の発刊は、その政策の一環としてなされたものである。
記事の多くはドイツ語で書かれているが,中国人に対する通知などがある場合,ドイツ語と中国語の両方を掲載していた。内容は、政府の告示・命令・知らせなどが大半を占め、当時のドイツ総督府の殖民統治の動向を詳細に示している。
ただし、1904年を境にして、その内容は構成・中身ともに大きく変わった。
1904年までの官報は、一般的な新聞の体裁をとり、告示・命令などを除いて、毎号の構成は異なるものの、一般新聞のように現地情報(主に青島で行なわれた総督府の人事変更・ドイツにかかわるイベント及び治安情報を含む)、ドイツ輿論(ドイツ新聞より転載したもの)、電報欄(青島以外のところからきた電報ニュース)、文芸欄、広告欄、附録(青島の気象情報、汽船の運航記録、礼拝時間の知らせなど)と6つのコラムからなっており、読者が政府の命令以外の情報を得ることもできたと考えられる。さらに、広告がおよそ新聞版面の3分の2を占め、電気設備会社、印刷屋、ホテル、銀行、弁護士、ドイツパン工場、保険、タバコ、輸入代理店、防虫・防カビ剤、雑貨店、石材屋、文具屋、日本製品卸売、自動車販売、ミネラルウォータ・シャンパン工場、家具店、時計店、出版社、絨毯店、新聞社など、その内容は文化・商工業全般に及んだ。広告の掲載者は、ほとんどドイツ人会社であった。
これに対して、1904年以降には、官報の各コラムはなくなり、広告も見えなくなった。当初、各号はA3の紙面で12面に上ったが、後に4~8面程度となっている。また、官報の発刊日についても、当初毎週土曜日に発行されていたものが、1908年11月2日から毎週金曜日に発行されるものへと変化した。さらに、1911年2月17日には、『青島官報』は『膠澳官報』へと改名をしている。