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LET 〜文学部への好奇心をアップする情報紙(WEB版)〜
LETは1年に1回発行される神戸大学文学部の情報紙です。
受験生をはじめ、多くの人に神戸大学文学部に興味や関心を持ってもらうことを目的に発行しています。
LETのネーミングは、もちろん Faculty of Letters の "Let…" からですが、それとともに単語 "let" が持つ「自由に…してもらう」という意味から、学生のみなさんに自らの未来を自由に開拓してもらいたいという願いも込められています。
「とらわれちゃだめだ」―知の探求と相対的な態度
石井 敬子 准教授(心理学専修)
夏目漱石「三四郎」の冒頭、高等学校を卒業し熊本から上京する三四郎は、汽車の中で隣り合わせになった男性(広田先生)から以下のような言葉を聞きます。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より......日本より頭の中のほうが広いでしょう。とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」。これは、広田先生の姿を借りた夏目漱石の心からの声であり、100年以上経った今でも全く色褪せないものです。この言葉は、大学、特に文学部での学びについて、以下の2つのことを考えさせてくれます。
まず、「日本より頭の中のほうが広い」―ある意味、飽くなき知の探究を私たちに呼びかけてくれます。知の探究、具体的には知を創り出し、蓄積し、理解することになりますが、これは人間の根幹をなす要素の1つです。そして知の探究を可能にする能力があるからこそ、多様な社会・文化環境も生み出されます。文学部における研究テーマ、例えば、哲学、文学、歴史、芸術、言語、地理、社会の制度やルールなどは、そのような知を代表するものです。また、文学部の心理学研究室では、知を獲得し理解するのに必要な基礎的なメカニズムや、そのメカニズムを前提とした上での多様な社会・文化環境に依存した心の性質の解明を目指し、行動を計測したり、脳の反応を調べたりする実験を行っています。文学部とは、「知」の学部であり、その研究によって知を提供し、そこでの学びによって冒頭の言葉が呼びかける知的好奇心や冒険心、さらにはその知の妥当性を検証していくのに必要な批判的精神を養っていく場です。
次に、「とらわれちゃだめだ。日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」―イギリスに留学し、圧倒的な西洋文明と対峙した漱石の足跡を踏まえても、知の探究のみならず、ある文化もしくは地域と比較して相対的に日本を眺める態度の必要性を示しています。こうした態度は、自分にとって当たり前であった物の見方が決して当たり前ではなく、異なった社会・文化環境、歴史、言語のもとでは、まさにそれらが制約となる結果、異なった行動パターンが生まれ得ることを理解し、さらに異文化の人々に対し、どのように自文化を説明したらいいのかを考えさせるきっかけになります。私が学生のときとは比較にならないほど、日本から海外への留学のチャンスは広がり、また文学部でたくさんの留学生を見かけることになりました。ぜひ文学部でのこのような機会を活かしてほしいと思います。
何かをきっかけに数年ごと漱石の作品を読み返してみるたびに、決してそれは古臭くなく、多くの点で共感できることを思い知らされます。たとえその冒頭の言葉が今一つピンとこなくても、文学部での学びで多少は何かわかることが出てきて、さらに人生経験を積み、その学びを礎として先人たちの言葉の背後にある意味が少しずつ分かってくる―それこそが金銭には決して換えることのできない学びの効用であり、知の探究の表れです。ともに学び、皆さんの歩みの一助になれることを私自身願ってやみません。